時計にたずさわり50年になりました
◎修業時代◎
100年続いた田舎の時計店の三男で、修理を覚えるため業界に入りました
昭和28年に、当時は徒弟制度が普通の時代です、住み込みで大阪の小さな時計店、店員3名修理職人1名でした
門前の小僧で初めは何も教えてもらえず、部品買いに大阪難波当たりの部品屋、天心など作る職人さん等を回って
いました、修理の初めはゼンマイ巻きの柱時計からです、穴うめとかアンクルを油砥石で研いでエースケープメント
の原理を研究しました、次は目覚し時計の天心を砥石で鋭角に研ぎます、これが難問でちゃんと出来るまで1年間
程度かかりました、小物のドライバーを研ぐなど、どれだけ綺麗に仕上がるか、早く綺麗に正確にの研修です、
目覚し時計のヒゲなどわざとのばし巻く練習をしました、手先の微妙な動きの訓練です、これが巻ければ懐中時計、
小さな腕時計と進みます、ただ根気の勝負です、それが基礎でした、今はこんな事はしているのでしょうか、
それから腕時計の分解掃除です、初めは手巻の簡単なものから、まだタイムグラファーは無かったです、
当時は自動巻がほとんどありませんでした、
手巻きではセイコー、シチズン8型とか男ではセイコースーパー、スモールセコンドが全盛です
オメガの半回転、インター、ナルダン等はたまにしかありません、そんな物でしょうか、
思いつくままにその時その時の思い出を記憶をたよりに 綴って行きます、
確かな記録とか文献をたよりに書いたのでは ありません、ただ記憶をたよりの記述ですので、思い違いや間違った 事も多々有るかも分かりませんが、気楽に読み飛ばしてください
正しい情報があればお知らせください 直ちに修正致します
私が此の業界に入った時は、まだ国産の時計が少なく主にスイス製品が多かった それも密輸入品で、
通称大虫とか小虫・長虫(5型、4型)と呼ばれていました、 初めの頃は18Kや14Kの側付でしたが、のちには機械だけがアルミのケースに入って入荷しました、
それを国内でケース(白でクロームメッキ)に入れ替え販売していました、まだ国産の時計が品不足なので飛ぶように売れていました
又、国産品ではセイコー・シチズンから出荷されていました、女性用は8型(通称シャミ胴とかパリス)が大勢を占めていました
小売価格で3,000〜4,000円ぐらいだったと思います
昭和30年頃ですか セイコーで薄型でエキストラフラットと言い二針でその後のシャレードタイプの スマートな型で私たちは驚いたものです
この機械のキャリバーはハッキリ思い出せませんが ただその当時の8型2針の機械でスモールセコンドをカットしたものだったと記憶しております
この時計についての情報が有りましたらお教え下さい
その頃ですか(昭和30年頃?)セイコーの自動巻きで巻上げ指針(12時の所)が付いたのが出たのは スイスのコピーだと言うような世評が業界にあったようです
この時代はスモールセコンドが全盛でした センターセコンドの時計はありましたが
出車方式で今までのスモールセコンドの三番車の上に車を足しセンターの秒針に繋がっていました 男物でシーマ等は代表的な機械です
ローレックスも大分長いあいだこの方式を採用していました
此れからセンターセコンドの時代に入ります
たしかセイコースパーといって10型ぐらいの機械が有りましたがこれがセイコーにおける最初ではないでしょうか
セイコーロードマーベルー手巻き時計12型で頑丈で確実な機械でした、安定した歩度で初めて安心出来る 国産時計でした
シチズンからはシチズンデラックスと言ってセイコーに対して薄型(3.6ミリ?) をセールストークに 出ました、
歯車の配列が今までと違い車が重ならないよう研究されていますこの時代は薄さが売りです
セイコーゴールドフェアーの方が少し薄かったと思います スイス製でエニカ、ボーマ、シーマなど冒頭の写真がエニカですキャリバーはAR1010で相当量のシィエアーでした、
沢山の分解、天真替え、竜頭かえなど有りました 国産ではセイコージャイロマーベルが昭和34年に発売です
機械が厚くちょっと驚いたものです、薄い時計が全盛でこんな厚い時計が売れるか不安でしたが,国産で初めての自動巻で値段が安かったので評判は良かったです
昭和36年頃から一部で多石時計リコーの33石、オリエント、ウオルサム?等の
100石など精度にはあまり関係の無い所に飾り的に使われていました
スイスメーカーではラドー、テクノス、ウオルサム、ユニバーサル、ビューレン、など中級的
な製品がセイコー、シチズンなどと競合時計業界は活況を迎えていました
こんな話の続を色々皆さんからメールを頂き拡充していきたいです
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